キャンプ旅に行こう 2010年・北海道の旅日記です。
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2010夏 北海道の旅

8月22日 その1

暑くないのはもちろん、寒くもない気持ちの良い目覚め。軽い朝食を済ませて、とっととテントの撤収を済ませる。

左写真は撤収直後の様子。お盆過ぎという事でギチギチにテントが張られる事も無く、ゆったりとキャンプが出来た。

これがお盆の真っ最中だと、キャンプ場への到着が少し遅くなっただけでテントを張る場所が無くて困る…という自体にもなりかねない。特にここの場合は。

私のCLを含めてバイクが4台写っているけど、うち3台が松本ナンバーでした(^_^;
キャンプ場を出発、美幌峠へ。幸い霧が出ていなかったので、峠に登り切る手前で屈斜路湖を撮って、パノラマに加工。


バイクに跨ったまま撮ったので写真が斜めになってしまったけど、ご容赦の程を…。

R333 端野峠旧道

R333端野峠は、現在は1993年竣工の端野トンネルで安全快適に走行できる。しかしトンネル開通前の旧道はダートでの峠越えであり、最後まで舗装される事無くダート国道のままであった。

トンネル開通後は当然ながら交通量のほぼ全てがトンネルを通るようになり、旧道は殆ど使われる事が無くなった。しかし旧道は廃道になる事無く、現在も普通車で普通に通行可能である。それどころか、現役時代ほどではないだろうが整備もされているようだ。

端野峠旧道の端野側入り口。ゲートはあるものの解放されており、木の枝が絡んでいる状態で暫く動かした形跡がない。

右端に写っている看板には、青い文字で「端野町メモリアルロード」と書かれている。つまり、この旧道は意図的に残されて保存されているという事だろう。端野町は北見市に合併したので、現在は北見市で管理しているのだろうか?


旧道の路面状態は良好で、何とも走りやすい。

路面右端には砂利というか土が寄せられた形跡があるし、何しろ超フラットな路面なので旧道化後も整備の手が入っていると考えるのが妥当だろう。

オフローダーには物足りないくらいではなかろうか。

峠には目立つ看板が。

ここからの眺めはなかなか良いけど尾根の間から眺める形になるので、さすがに開陽台とか多和平のような広々とした感じは無い。

峠は大きな切り通しで超えている。トンネルを掘ったほうが楽だったんじゃないの? という位。

道幅もしっかり確保されており、切り通しの端野側は待避所だったようで特に道幅が広くなっている。

峠を超えると道幅は狭くなるが、これは両側から木々や雑草が侵食してきているから。路面自体は相変わらず超フラット。

端野側同様にダートの割に快適に下っていけるが、ロードタイヤを履いているので無理は禁物。

やがて現道と合流。

現在は現国道と直角に合流しているが、開通前の写真を掲載しているサイトを見ると、この周辺の道路線形が異なっている。現道開通時に直角合流するように線形を変えたようだ。

ダートは言えバイクでも車でも走りやすいし、旧道探訪初心者にはオススメの旧道。

R333 仁頃トンネル・新佐呂間トンネル旧道

端野峠を超えてR333をそのまま北西方向へ進むと、仁頃トンネルがあり、その脇には旧道が存在する。

仁頃トンネルが竣工したのは2003年。それまではルクシニコロ川に沿った旧道が使われてきたのだが、2001年に犠牲者を伴う土砂崩れが発生して通行止めとなり、災害区間を回避する為にトンネル化された。

旧道は通行止め。写真を見ての通り大きく土が盛られて車両は通行不能にされている。

仁頃トンネルの先は、2009年まではルクシ峠を通過するルートであり、峠の仁頃側にはサロマトンネルが存在した。しかし急勾配と急カーブが続く区間である事と降水量が毎時55mm以上になると通行止め、更に上記の土砂崩れ災害が発生した事により峠をバイパスする新佐呂間トンネルが作られ、2009年に供用開始された。

ただこの新佐呂間トンネルも、工事中に近くの若佐地区で竜巻が発生し工事関係者が被災するという事故も発生しており、仁頃トンネル〜新佐呂間トンネル区間の改良は順風満帆ではなかった。

トンネル開通に伴い、ルクシ峠経由の道は旧道化した。

このルクシ峠経由の旧道も、道路の規格自体は決して悪くなかったと思う(前回通ったのが結構昔なのでよく覚えていない)。サロマトンネルも竣工が1988年と、それほど古いわけでもなかった。

しかし思い切りが良いというか、旧道は一般車完全通行止めの処置が取られていた。

旧道の仁頃側入り口は現道によって半分以上削り取られ、残った一車線分もゲートによって完全封鎖。

この写真を撮った私の背後にも旧道の名残り(ガードレールとアスファルトの一部)が残っているのだが、現道と路面の高さ自体が大きく違っているので、名残りと言うより単なる残骸と化していた。

仕方が無いので新佐呂間トンネルを抜けて、旧道の若佐側へ行く。

旧道の若佐側は線形改良されて現道と直角に交わる形になっているが、その先は快適に走れる二車線道路が続いている。TMではルクシ峠まで行けるようなので先へ進んでみると…

民家を過ぎた所で、強固なゲートとバリケードで通行止め(-_-;)

峠の展望台まで行けるんじゃなかったの?(T_T)

ゲートの先も特に問題は無さそうなんだけど…。

封鎖自体は仕方が無いと思うのだが、せめて峠までは行きたかった。峠までの行き止まりの道ならば、天候によって通行止めでも問題ないと思うんだけど…。

管理側にも色々と都合があるのだろう。多分。

という訳でルクシ峠を通る旧道とサロマトンネル、そしてサロマトンネルが出来る前の旧旧道は行けない状態になっていた。残念。

共立峠林道

この林道は、自分的には本日のメインスポットと言ったところ。林道自体は行き止まりで、直線が長いとか見晴らしの良い場所があるとかの特記事項はない。個人のツーレポでも登場する事は殆ど無いであろうマイナー林道。

では何故ここに来てみようと思ったのか。詳細は後述するが、北海道の歴史の暗部を今年も訪れて見てみようと思ったからである。

R333から道道103号線に入って少し南下すると、共立林道の入口がある。看板に気づくのが遅れて、この辺りを2往復してしまった…。

林道と言っても民家があるので、途中までは舗装されている。

暗い歴史を秘めた道ではあるが、そんな雰囲気など無いまま進行する。

民家のある場所を過ぎた途端に舗装は途切れる。

とは言え路面状態はそれほど悪くもなく、森林地帯へ突入していく。上り坂ではあるが勾配も緩く、何の問題もなく走行できる。

森林地帯に突入。一気に鬱蒼とした湿っぽい感じになる。

路面状態は少し悪くなるが、オフロードバイクなら全く問題無いレベルで、飛ばさなければロードバイクでも走行可能。

最初の分岐。ここはメインルートの右へ。

左側の道にも入ってみたのだが、数百メートル先で行き止まりだった。

少し走ると二つめの分岐が現れる。ここには「共立峠林道」の看板があり、それに従って直進。

路面の左側になにやら白いものがあるのだが…。

小さな白い蝶の集団。

近づくと一斉に舞い上がるのだが、離れてしばらくするとまた同じ場所に密集して止まる。

この場所に何があるというのだろう…(汗)

今いる場所が場所だけに、変な方向に想像が向かってしまう(大汗)

しばらく林道を登って行くと、やがて峠の頂上に到着する。ここまでの道程で特に走行の支障になるような物は無く、林道を走り慣れている人なら至って普通に走行可能。

峠には車2台分ほどの待避所があり、その反対側には峠について書かれた看板がある。

以下看板に書かれた文章を転載。
旧中央道路・5号峠 (標高約500M)

「中央道路」は札幌〜網走間を結んで北海道の内陸を東西に横断する大動脈として開削され、1891(明治24)年に開通した。この峠は麓に設置された「5号佐呂間駅逓」の名をとって「5号峠」と呼ばれた。
1919(大正8)年に旭峠を迂回する道路が開通して以降廃道となっていたが、1982(昭和57)年佐呂間町共立から峠までが林道に改修され「共立峠林道」となった。
中央道路は開拓促進のための産業道路であると同時にロシアから北海道を防衛するための軍用道路であった。開拓を急いだ明治政府は、囚人を使って工事を進めたが短期間の強制労働で多くの犠牲者を出した。
1984(昭和59)年、旧「5号佐呂間駅逓」の近くから2体の遺骨を発掘した。
林道の一部には、100年前に削られた片崩しの法面がそのまま残っていて、中央道路の「秘められた歴史」を今に伝えている。1991年には中央道路開削100周年と、その中央道路を開基のルーツとする留辺蘂町が開基100年を迎えた年である。

そして、当サイトの2006年北海道旅日記から転載。

開墾には網走監獄の囚人約1100人が当てられ、網走から北見峠までの39里(156km)をわずか7ヶ月間で作り上げるという驚異的なスピードで工事が行われた。単純計算だと一ヶ月で22.3km、一日で740m以上。しかも鬱蒼とした樹海を、重機などは一切使わない人海戦術で開削していった。

そう、共立峠林道とは、過酷な強制労働と多数の犠牲を伴って開削された当時の面影を色濃く残す中央道路そのものという、曰く付きの林道である。ネット上でもこの林道について掲載しているサイトは数えるほどしか無い。

もちろん中央道路は車道化されて今でもほとんどが現役なのだが、開削当時のルートとは微妙に違っている場所もあるようだ(R333北見峠の場合は旧道が中央道路なのだとか)。開削当時のルートのまま大きく変わっていなくて車両通行可能なのは、今やこの共立峠林道くらいである(ただし途中から廃道化していて生田原までは通じてはいない)。

実際に行ってみて、開削された100年前そのままの片崩しの法面がどれなのかは分からなかったが、今でも道端に当時の犠牲者が鎖につながれたまま埋められていても何の不思議もない林道。人の気配が全く感じられない樹海を貫く林道に一人でいるのは非常に心細いのだが、同時に「良くこんな場所に人力だけで道を切り開いたものだ」とも思う。

いくら当時の国策で開削作業に当たったのは囚人だったとは言え、その犠牲になった人々は無念の一言だったのではなかろうか…。ちなみに、この工事で200名以上が無くなっている。

結局、「監禁と過酷な重労働」という二重懲罰を与えるのは囚人虐待であるとして、囚人労働は無くなっていく。しかし、代わりに現れたのが「タコ部屋労働」というやつ。それによってやはり多数の犠牲を伴って作られたのが、あの石北本線・常紋トンネルで、しかも現役だったりする…。

閑話休題。

峠の先にも林道は続いている。「とりあえず、行ける所まで行ってみよう」とCLに再び跨る。

しばらくは登りと同じ路面状態が続くが…。

次第に路面状態は悪化してくる。重機が入ってきた形跡は残っているのだが、路面を少し平らにしただけのような状態になる。

途中には急坂もあり、ヒヤヒヤしながら下った先にはどっちが旧中央道路か分からない分岐が二ヶ所ほどあり、更に進むと重機の形跡も消えて路面は一面の雑草が生えているような状態になり、廃道に近い状態になってきた。

さすがにこの時点で「これ以上先に進むのはヤバい」と判断。自らが付けた轍を頼りに峠まで戻り、道道へ無事復帰。

開削から100年以上も経っている為、廃道化した部分を探索するのは困難な上に熊など色々な危険性が伴う。暗く悲しい歴史が込められた道でもあるし、現時点では無暗に深入りするべきではないだろう。

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