2006年夏・初めての北海道車旅の旅日記です。 | |
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2006年 北海道の旅8月15日 その1今日は今年の北海道の旅でのメインになる日。北海道開拓の歴史の暗部に触れようと思い、中央道路に向かって車を走らせる。中央道路 その1中央道路とは、北海道開拓にあたって内陸部に入っていく為の道路として作られた道で、網走から旭川までの約226.4kmがそれに当たる。網走監獄の囚人が工事に従事した事から、別名「囚人道路」とも呼ばれている。他にも囚人によって作られた道路はあるのだが、ここでは省略。中央道路のルートは以下の通り。完全に一致するわけではないが、ほぼ当時のルートとの事。
まず網走湖西岸の県道104号線を走り始めて目に入ったのが、「第一號越歳驛逓跡」という石碑。今はだだっ広い丘陵地帯の畑の一角にポツンとあるだけなのだが、中央道路が開削されてから旭川までの鉄道が開通するまでは人馬の貸し出しや郵便の取り扱いをしており、物流と情報の拠点となっていたのであろう。そして宿泊所としての機能もあり、旅人が一日の疲れを癒す場所でもあったはず。 網走から旭川までの間に1號〜12號まであったらしいのだが、これらは北海道開拓の歴史に深く関わる場所でもある。現役当時は開拓者達が夢を持ちながら行き来したであろう。もし彼らが今の北海道の姿を見たら、一体何を思うのだろうか? 自分達の夢が叶った喜びだろうか。それとも「こんな筈じゃなかった」という幻滅だろうか・・・。 常紋トンネル※常紋トンネル
1912年から3年がかりで完成した、JR北海道・石北本線の現役鉄道トンネルで、長さ507m。瑠辺蘂側にある常紋信号場は、昔はSLの撮影スポットとして知られていた。 トンネル工事には、囚人に代わって都市部から集められた通称「タコ」と呼ばれる労働者が使われ、粗食と過酷な労働で百数十名の死者が出たと言われ、死体は穴の中に遺棄したという。その為、常紋トンネルができた当初から幽霊話が「常紋怪談」として語られていたという。 昭和45年、壁面の補修工事中に壁の中から人骨が発見され、常紋怪談の人柱伝説が事実である事が確認された。その後の調査により、周辺からも人骨が発見されている。 ※タコ部屋労働 囚人労働の過酷さが問題視されて1894年に囚人の外役労働は廃止されたが、それに代わって拘禁労働者として「タコ」が主力になった。「タコ」という呼び名の由来は様々であるが、道内や内地の都市部から言葉巧みに集められた労働者で、囚人は鎖で拘禁されたがタコは暴力と監視によって拘禁され、朝早くから夜遅くまで酷使され人権無視の扱いを受け、結局は囚人労働同然の状態であった。 囚人と違って日給は出たが、食費の他に飯場で売られている日用品や足袋など作業用品は世間よりはるかに高値で販売されて(逃げ場が無いのでそこで買うしかない)タコはお金が貯まらないようになっており、利益は上のものが搾取する仕組みになっていた。 国道39号線に出て、瑠辺蘂方面へ向かう。緋牛内に「鎖塚」と呼ばれる慰霊の場所があるのだが、うっかりしていて行きそびれてしまい、やむを得ず常紋トンネル方面に向かう。 その途中、金華駅に立ち寄る。常紋トンネルの最寄り駅になるのだが、付近は民家がいくつかあるだけの寂しい場所。かつての駅前通りは人影は無く、廃屋が目立つ。私以外にいるのはここで列車を降りたらしいおじさん一人だけ。 「いやぁ〜、何にも無い所で降ろされちゃいましたよ〜」などと言っていたが、そもそも自分の意思で降りたのでは? 何の目的があったのかは知らないが・・・。慰霊の為ならさっさと慰霊碑方面に行くはずだし。それとも「鉄っちゃん」か? 半分冗談で言ったんだろうけど、私はただ苦笑いするしかなかった。 金華駅は無人駅だが、駅舎の大きさ・構造から見ると以前は有人駅だったようだ。ホームに出てみると車両交換できるようになってはいるが、もう一つの線路間にある島式のホームは片側しか使えないように駅舎側が大きく斜めに削られている。 駅舎のホーム側には「常紋トンネル工事殉難者慰霊碑・昭和55年11月建立・駅より300m」という看板がある。汽車で慰霊に来る場合はここで降りるわけなので、案内を兼ねて設置してあるものなのだろう。とりあえず駅付近にあることを確認し、いよいよ常紋トンネルに向かう。 先程のおじさん、私が駅の写真を撮ったりしている間、所在無さげに近くをウロウロしておりました。
常紋トンネル方面へ行く道はすぐに見つかった。両側に雑草が生い茂っているダートをゆっくりと走っていく。 やがて右手に線路が見えてくる。JR石北本線だ。車の中から見ても急勾配であることが分かる。そして線路方面に下っていく道が見えてくるが、ゲートで車両が入れないように閉ざされている。その先にはかつての常紋信号所のスイッチバック(現在は廃止されている)も見える。 車を端に目一杯寄せて止めておき、カメラ片手に先に進んでみる。 右手には使われなくなって真っ赤に錆びて雑草に埋もれているスイッチバックの引込み線線路、そしてその先にはスノーシェード。しかし窓ガラス全てが投石等により割られており、木の板が内側から貼り付けられているという惨状だった。 以前は車ですぐ横まで行けたのだが、こんな事をする輩がいるからゲートが設置されてしまったのだろう。おそらく一部の鉄道マニアか肝試しに来た人がやったのだろうが、こんな低レベルで無意味な事はやめて欲しい。ちなみに運行中の列車の前を横断し、急勾配の途中で危うく列車を止めてしまいそうになった鉄道マニアもいたらしい・・・。 スノーシェードの向こうには、常紋トンネル本体がわずかに見えている(左写真の右側スノーシェードの向こう側にチラッと見えています)。 しかしトンネルに行く為にはシェード内を通らねばならず、信号所自体は今は使われていないが、シェード内の線路の一本は当然ながら今でも現役で使われている。 現役線路の敷地内に無闇に立ち入る事は避けるべきだし、実際線路内に立ち入らないように書かれた看板もある。トンネル直前まで行きたいのは山々であったが、シェードの手前から望遠で写真を撮る事くらいしかできませんでした。
金華小学校跡地は国道脇の高台にあり、階段があるのですぐに分かる。階段の道向かいに駐車スペースあったので車はそこに止めておき、階段を登っていく。 中央道路は囚人を使って開削されたが、常紋トンネルは甘い口車で都市部から勧誘してきた「タコ」と呼ばれる人夫によって作られた。詳細はえんがぁるネット(散歩道→北海道雑学→常紋トンネル)というサイトに掲載されているので省略するけど、北海道の歴史の暗部がここにもある。 時折国道を通る車の音以外は静寂が支配する慰霊碑の前で静かに手を合わせ、殉職者の霊が安らかに眠る事を願う。こうした強制労働によって作られた道路や鉄道を使って暢気に旅をするだけではなく、かつて苦労した歴史に目を向ける事で、違った目で北海道を見る事が出来るようになりたいと思う。 実はもう一つ「常紋歓和地蔵尊」というのがあり、実際に発見・発掘された人骨はそこに安置されています。石北本線沿いにあるらしい事まではわかっていますが、今回は事前調査不足で行っておりません。もっとも、安易な気持ちで行ける所ではないのですが・・・。 中央道路 その2国道242に戻り、瑠辺蘂から道道103号を北上。峠の頂上にも中央道路開削犠牲者慰霊碑があった。中央道路の経路には、こうした慰霊碑が何箇所かにあるのだが、こうした開削に暗い歴史のある事を過去の事としてではなくしっかり目に見える形で残しておく事によって、自分達の今の生活の基盤が誰のお陰でできたのかを再確認しよう、という意味もあるのだろう。 更に進んで花園地区に出る。中央道路はこの辺りから峠越えをしていたはず。 地図を見ると花園牧場という所に行く道が一番登っていってる。というわけで行ってみたんだけど、牧場周辺はちょっとした公園になっていて、その先は車一台分の道幅のダートになっていました。そんな訳で結局、確認する事はできませんでした。 国道333号を白滝方面へ。白滝からは旭川紋別自動車道が現在は無料開放されているのだが、私は当然国道をそのまま北見峠に向かう。 白滝ICを過ぎると、交通量は極端に減る。車がほとんど通らない、180度ターンの続く国道333号を、北見峠に向けて登っていく。 北見峠の駐車場兼休憩所は、広い駐車場に一台も車は無く、売店も閉まっている。閑散とした峠には人の気配は無く、交通量もほとんど無し。 旭川紋別自動車道が有料になったら、少しは交通量も以前に近いくらいに戻るんだろうけど・・・。 駐車場の片隅にも中央道路開削慰霊碑が。土台の部分に開削の経緯が刻まれていたので、下記に転載。 ※中央道路開削経過
中央道路は網走に起り北見・瑠辺蘂・佐呂間・野上と経て、この「北見峠」を越え上川・愛別・旭川に至る当時全長五十七里十四町十一間(二百二十五粁四百二米)の殖民道路であり、拓殖と北辺防衛上極めて重要視されて開削されました。 尤もこの道路の北見側は、その大半が釧路集治監より網走分治監に移された千百余名の囚人を使役として開削されたものであり、明治二十四年春着工以来わずか七ヶ月を経た同年十一月にはこの北見峠まで網走から三十九里(百五十六粁)の道路が完成を見るに至り、その作業能率は今にしてみれば驚異的なものでありました。 したがって作業内容は想像を絶する酷使に次ぐ酷使、不眠不休の労役が続けられ、特に最も惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は、過度の労役と病にたおれた死者百八十余名にも及び、死亡者は路傍に仮埋葬されたまゝ弔う人もなく、そまつな名もない墓標は風雪にさらされたまゝ月日のたつに従い消え去り、今になっては埋葬された場所もほとんどが不明になりました。 その後昭和三十二年春、白滝村字下白滝で六体を発見収容、昭和三十三年遠軽町字瀬戸瀬で四十六体を発見収容、更に昭和四十六年十月白滝村字白滝東区で六体を発見収容、それぞれ供養の上改葬しましたが、未まだ当時埋葬のまゝ地に眠れる靈の多い事を想い、こゝに殉難者慰霊の碑を建立し、この道路建設のいしずえとなった囚徒の靈の安らかな眠りを念ずるものであります。 (管理人注記 : 原文のまま転載。ただし読みやすいように句読点を追加してあります) 路傍に埋葬された人々のうち、今も2/3はまだ埋葬された当時のまま土の中で眠っているという事だ。 実際に走ってみて感じたのは、よくこれだけの区間を人海戦術だけで、たった7ヶ月間で開削できたものだという事。もちろん当時の道幅は今ほど広くないのは想像できるけど、それにしても・・・。 当時の開墾の辛さ・厳しさを改めて痛感せざるを得ませんでした。 |
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