キャンプ旅に行こう 2006年GW・沖縄ツーリングの旅日記です。
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2006年GW 沖縄の旅

5月4日 その2

佐敷城(さじきぐすく)

首里城を後にし、次に向かったのは佐敷城。

佐敷城は琉球統一を果たした尚巴志と父・尚思紹の居城跡と言われているのだが、行ってみての感想は、「ずいぶん小さな城だなぁ・・・」。正直言ってどこに建物があったのかよく分からず。

面積的には駐車場になっている一番下段の辺りが一番広いんだけど。ぱっと見た感じでは、内地の神社のようにしか見えない。立派な鳥居もあるし。

しかしちゃんと御嶽もあり、ここは紛れも無くかつてのグスクだった事を物語っている。

発掘調査ではお椀や皿、小銭等が見つかり、柱の穴の跡とかも発見されてるらしい。しかし、石垣などの遺構は発見されていない。石垣は首里城建築時にここから運ばれたという言い伝えもあるので、その時に失われたのかも。

また、後で知ったんだけど近くには尚思紹の父・佐銘川大主(さめがわうふぬし)の邸宅「佐銘川御殿(さめがわうどぅん)」があったらしいが、2002年の台風で全壊してしまったらしい。

斎場御嶽(せいふぁうたき)

斎場御嶽は、沖縄の開闢(かいびゃく)神・アマミキヨが作ったとされる、沖縄本島における最高の聖地。今でこそ性別に関係なく入れるが、昔は入る事ができるのは王宮関係者のみで、国王以外の男性と一般女性は入る事ができなかった。山仕事等でやむを得ず入る場合は、女装してから入ったといわれている。

駐車場からは御門口(うじょうぐち)という所を通って入って行くことになるが、地面が沖縄ではどこにでも見られる珊瑚起源の石で作られた石畳になっていて滑りやすく、ちょっと歩きにくい。

しばらく歩くと、岩場の下に祭壇が設けられた場所にたどり着く。ここが大庫理(うふぐーい)と呼ばれる場所で、首里城正殿の2階と同じ名前が付けられている。聞得大君のお新下り儀式でのお名つけの儀礼、つまり就任式が行われた場所。

観光客のざわめきが無かったら、神秘的な雰囲気が満点の所だろう。周囲は鬱蒼とした森の中だし。

更に先に進むと、道は二手に分かれる。まずは左へ行ってみることに。

少し歩くと、右手に大きな水溜りというか池が見えてくる。これは「砲弾池」と呼ばれる池。これだけで分かると思うけど、この池は第二次大戦で米軍の艦砲射撃によってできた窪みに水が溜まってできたものである。

すでに終戦から長い年月を経ているので、できた当時はもっと大きかったはず。斎場御嶽は本島で最高の聖地なんだけど、そんな事はお構い無しに砲撃が繰り返されていたわけだ。

そう考えると、斎場御嶽が無事に残ったのは、神の力が働いているような気がしてきてしまう。

更に先に進むと、またまた拝所が現れる。岩でできた崖が大きくえぐれたようになっていて、そこが拝所になっている。ここは寄満(ゆいんち)という場所で、首里城内にある厨房の名前と同じ。第二次大戦前までは、その年の吉凶を占う石が置かれていたとの事。

頭上からは鍾乳石が垂れ下がり、ここがとても長い年月の間このままの姿であった事を物語っている。

分岐まで戻り今度は右方向に歩を進めてみると、広い場所に出る。右手には「チョウノハナの拝所」があり、上からは寄満のように鍾乳石が2本垂れ下がっていて、その下には壷が二つ。ここに溜まる水が最高の霊水として、いろいろな儀式に使われたとの事。

壷には水が一杯に入っていて、ちょっと手を入れてみたい気分になってしまったが、ここが現役の聖域であることを考えて、やめた。

チョウノハナの拝所の左には三角形の空間があり、その奥の突き当りが三庫理(さんぐーい)という拝所で、岩に囲まれた空間。

正直言って、出来すぎじゃないのか? というのが最初に見た感想だった。この三角形の空間は、左側の巨大な板状の岩が右側の岩に寄りかかっている形でできているのだが、三庫理に行く為に作られたとしか思えないような形なのだ。もちろんこの地形は人為的なものではなく、自然に作られたものである。

しかも、この三庫理の左側は一部開けていて海が見えるのだが、その向こうには沖縄最高の聖地である久高島が見えるというロケーションである。

一部開けているのは人為的にそうしたのかもしれないが、それにしてもねぇ・・・。

何だか神の存在を感じてしまうような場所でした。内地じゃこういったものはなかなか無さそうだし、沖縄ってすごいなぁ・・・とつくづく感じてしまったのでした。

知念城(ちねんぐすく)

斎場御嶽を後にし、やって来たのは知念城。古代の遺跡のような雰囲気ぷんぷんの所。

知念城は古城(くーぐすく)と新城(みーぐすく)という二つの郭から出来ていて、古城は12〜13世紀にアマミキヨの長男・天孫の時代に、そして新城は第二尚氏時代の15世紀後半に築城されたと言われている。

ちなみにここは、明治40年まで知念番所という役所として使われていたというのだから驚く。

綺麗に組まれた石造りの正門をくぐる。補強無しでもしっかりとした感じで、天井部のアーチ型に削って作られた石も見事なもの。ここでも当時の建築技術に改めて驚かされる。

城郭内部にも石垣が残り、発掘作業も行われているようだ。もちろん場内には友利之嶽という御嶽もあるんだけど、かなり鬱蒼とした場所でハブの危険があるのでさすがに行きませんでした(^_^;)

また、周辺は知念集落がかつてあった場所らしく、駐車場から城まで行く途中にノロが住んだ屋敷の跡が残っている。

石垣の上にカジュマルの木が生え、根が石垣の間に入り込んで飲み込もうとしている。

ネットでいろいろ調べると、知念城は知念を治めた按司(あじ:地方領主の事)の居城というより、聖地の性格が強かったという話もあるようだ。実際、友利之嶽は昔は男子禁制だったようだし。

世界遺産に指定されてない事もあって、訪れる人は少ない。けど、個人的にはかなりお気に入りの場所になったのでした。うまく言えないけど、雰囲気が良い場所なんですよ。

知念城を後にし、R507→R329で那覇に戻り、本日の旅は終了。

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