キャンプ旅に行こう 2006年GW・沖縄ツーリングの旅日記です。
ホーム > 旅日記 > 2006GW 沖縄の旅

2006年GW 沖縄の旅

5月6日 その2

久高島から戻り、安座真港から南西へ。

次の目的地は垣花樋川(かきのはなひーじゃー)だったのだが・・・途中で案内標識を見落としたのか、案内看板が全く無くなってしまって場所が分からず、途中で断念。玉城に向かう。

玉城(たまぐすく)

駐車場にスカブを止めカメラなどの準備をしていたら、ツーリングマップルが無くなっているのに気が付いた(T_T) どこで落としたのだろうか・・・久高島か? それとも安座真港か?

予定スポットを書き込んだりしてあったのだが今更戻るわけにも行かないし、新しく地図を買うしかないと判断。やれやれ・・・。



玉城はゴルフ場の隣にあり、城跡があるシチュエーションと言うにはあまり似つかわしくない場所にある。

築城年代については詳しい事はわかっていないが、なんと開闢神アマミキヨが築いたと言われる琉球最古の城跡。神が築き、子孫が暮らした城なんて、おそらく世界広しと言えどもかなり珍しいのでは?

ちなみに開闢神アマミキヨ(女の神様です。夫はシネリキヨと言う)は久高島・カベール岬に上陸した後は、その後沖縄本島のヤハラヅカサと言う場所に上陸、その後本島内を移動していたみたいで、アマミチュと呼ばれる墓まである。奄美諸島からやって来た人が神格化されたという説もあるが、他にも諸説あって定かではない。

玉城は三つの郭からなる城なのだが、残念な事に玉城の遺構は終戦後に米軍基地建設に伴う骨材として持ち去られてしまい、二の郭・三の郭はかろうじて根石が残っているのみでほとんど消滅してしまっており、現在残っているのは一の郭のみ。現地案内板によると、現在は県条例で周辺地域の現状を許可無く変更するのは禁止されている。

滑りやすい石畳の道を登っていくと、やがて一の郭に入る城門が見えてくる。琉球最古の城門らしくと言うべきか、天然の岩をくりぬいただけの丸い城門。大きさも頭をすくめないとくぐる事が出来ない高さで、足元の幅は人一人分しかない。

かつて神が暮らした城の中は、周囲の木々で日が差す部分が少なく、薄暗い。足元には石畳が続き、あまり広くない郭内には御嶽や拝所、かつての住居跡が点在する。しかし、それがかえって神聖な場所と言う雰囲気をかもし出している。

また、玉城は東御廻い(あがりうまーい)の巡礼場所のひとつとして、今でも参拝に訪れる人が絶えない聖地でもある。

時間があったら、東御廻いのコースを辿る旅というのも良いかもしれない。

※東御廻い(あがりうまーい)
与那原町、佐敷町、知念村、玉城村の聖地巡礼の神事。コースは人や氏族によって若干違う場合があるようであるが、最初に園比屋武御嶽で斎場御嶽を経て玉城に至るという部分は共通しているとの事。

東御廻いの順路は以下の通り。

園比屋武御嶽(そのひゃんうたき) → 御殿山(うどぅんやま) → 親川(えーがー) → 馬天御嶽(ばてんうたき) → 佐敷城 → テダ御川(てぃだうっかー) → 斎場御嶽(せいふぁうたき) → 知念城 → 知念御川(ちねんうっかー) → 受水走水(うきんじゅはいんじゅ) → ヤハラヅカサ → 浜川御嶽(はまがーうたき) → ミントン城(現在は個人所有地の中らしい) → 玉城

平和祈念公園

更にR331を南西に向かい、やって来たのは平和祈念公園。本来は戦没者の慰霊をし、沖縄戦の悲惨さを後世に伝える為の所なんだろうけど、すっかり観光地の趣きだな・・・というのが第一印象。

広い駐車場には観光バスが何台も止まり、どう見ても慰霊の為とは思えないカップルや若者グループがはしゃいでいる。とりあえずバイクが何台か止まっている場所があったので、その隅っこにスカブーを止めて歩き始める。

左手には大きな塔が二つ建っているが、そちらには向かわずに戦没者の氏名が刻まれている平和の礎へ。

日本人・外国人問わず、判明した戦没者の氏名が黒い礎石に白い文字で書かれている。親族・遺族と思われる人々が食い入るように名前を探している姿も多く見受けられる。

敵味方・国籍も関係なく戦没者の名前が刻まれているその礎石の数々は、戦没者の数の多さと遺族の悲しみ、そして二度と繰り返してはならないと言う気持ちがひしひしと伝わってくる。まだ見つかっていない戦没者の為に、何も書かれていない礎石もちゃんと用意されている。

そして平和の礎の左手の階段を登り、一段高い所が磨文仁(まぶに)の丘。ここには各都道府県の慰霊塔が並び、中央には国立沖縄戦没者墓苑がある。

そう、ここが戦没者の遺骨が納められている、平和祈念公園で一番神聖な場所。観光客もここまで来る人は少ない。時折訪れる参拝者以外の姿は少なく、駐車場近辺とは打って変わって静かな雰囲気が周辺を包んでいる。

私はただ墓苑の前で静かに手を合わせ、戦没者の冥福を祈る事しか出来なかった。

都道府県の慰霊塔の間を更に先に進む。かなり奥のほうに長野県の慰霊塔、「信濃の塔」があった。ここでも手を合わせ、更に先に進む。

奥にもある売店のおばちゃんの視線をかわしつつ右方向に続く坂を上っていくと、「勇魂の碑」という石碑がある。左側には旧陸軍上層部の軍人と思われる人々の名前が刻まれた碑もある。

そして・・・左側には海に向かって降りていく細い道がある。そこを入っていくとすぐに左側に分岐して下っていく階段がある。

階段はすぐに180度方向転換をして急勾配で下っており、その先には洞窟がある。

横にある石柱には、「第三十二軍司令部終焉之地」との文字が・・・。

そう、この狭い洞窟が旧陸軍司令部が最後に置かれ、司令官が自決したその現場なのである。平和祈念公園の最大のリアリズムが凝縮されたような場所。

ガイドブックに掲載される事がほとんど無い(少なくとも手元のガイドブックには一文字も書かれていない)せいか、観光客はおろか参拝者も滅多に来ないのだろう。献花されてはいるが、その数は少ない。

ここで自決した司令官についての評価は様々であるが、ここではそれに関しては省略する。ただ、当時の日本は結果的に対外的な判断を誤ってしまい、更に日本国民の精神性の傾向が勝ち目の少ない戦争に突っ走ってしまう方向に拍車をかけてしまったような気がする。

もっともこれは今でこそ言えることであって、もし私が当時に生きていたらどう思っていたか分からない。

私はここでも手を合わせ、再び過ちを繰り返さないように祈る事しか出来なかった・・・。

勇魂の碑まで戻り、海方向の写真を撮ったりしていると、家族観光客らしき数人が、先ほど私が行ってきた脇道を覗き込んでいた。しかしそこから先に進む事無く戻っていった。

やはりガイドブックやパンフに紹介されていない所を歩いていくのは不安だったのかな?

駐車場に戻ると、周囲に止まっていたバイクは全て出て行ってしまった後で、スカブーだけが一台でポツンと私が戻ってくるのを待っていた。

カメラをトランクにしまい、ひめゆりの塔に向けて出発。

ひめゆりの塔

ここもガイドブックには必ず出てくる戦跡。しかし、やっぱりここも観光地となってしまっており、国道沿いにはコンビニや土産屋がずらっと並び、観光バスがひっきりなしに入ってくる観光名所の趣であった。産業の限られる沖縄では仕方の無い事ではあるのだが・・・。

誘導員の指示のまま駐車場にスカブーを止め、カメラを持ってひめゆりの塔に向かう。

ひめゆりの塔は、国道から入ってすぐの場所にある。そして、そのすぐ横には大きな穴が開いている。これが第三外科壕と呼ばれるもの。この穴の中でひめゆり部隊の14歳から18歳の少女たちが、傷付いた兵士達を看護し続けたのである。

ひめゆり部隊とは、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒で編成された従軍看護部隊で生徒222名、教師18名からなる(ひらがな表記は戦後に使われるようになった)。

米軍による艦砲射撃60万発、大砲の砲撃200万発という沖縄の地形すら変えてしまったと言う「鉄の暴風雨」が外で吹き荒れる中、仮眠すら満足に取る事もできずに看護し続けた彼女たちであったが、磨文仁にあった司令部から発せられた突然の解散命令により、戦場に放り出される事になってしまった。

ここの第三外科壕にいた生徒・教師・一般避難民達は脱出を決めたものの、脱出する前に米軍に毒ガス弾を投げ込まれ、ほとんどの人達が死亡してしまった。他の壕にいた女生徒達も、脱出したものの砲弾が飛び交う中森林地帯をさまよい歩いて倒れ、また海岸の断崖に追い詰められて消息を絶ったり、手榴弾で自決する生徒も多かったという。

すぐ横にある「ひめゆり平和祈念資料館」に入る。

中は展示室が5ヶ所あり、ひめゆりの生徒達が明るく過ごしていた頃から、戦場に借り出され死に物狂いで看護を続けていた頃、そして解散命令が出てからの様子が実際に使われていた医療器具や写真と共に展示されている。

そして200名以上の遺影が掲げられた展示室に入る。まだあどけなさを残した女生徒達が多く見受けられる。また、第三外科壕が実物大で再現されているが、とても怪我人を看護するような場所じゃない、というのが私が正直に感じた感想だ。竪穴なので負傷した兵士を背負ったまま梯子を使って出入りしていたわけだが、そんな重労働が当たり前のように行われていたわけで、現在からは想像もできない。

沖縄戦の悲惨さがこれでもかと伝わってくると同時に、湧き上がってくる悲しみを抑える事が出来なかった・・・。そして、内地にいて話を聞いたり本を読んだりしているだけじゃダメだ、と改めて思い知った。

話はちょっとずれるけど、先日戦艦大和の映画が公開されたが、あの戦艦は事実上唯一沖縄に派遣された援軍だった(結局到着できなかったが)。悲劇として有名だけど、それと同じかそれ以上の悲劇が沖縄で起こっていた。何しろ比較にならないほど多数の民間人まで地上戦に巻き込まれていたのだから。私があの映画を見る気にならなかったのは、その辺りが理由なんだけど・・・。

駐車場に戻ると、相変わらず車や観光客が行きかい賑やかだ。この中のどれくらいの人がかつての悲惨な出来事を心に刻み込んでいってくれるのか考えつつ、ひめゆりの塔を後にした。

南山城(なんざんぐすく)

南山城は、ひめゆりの塔から県道7号線を北上して左手の高峰小学校のグラウンドの横・・・と言うか、ほとんど敷地内にある。

駐車場が無いので、とりあえず小学校入り口の歩道が広くなっている部分にスカブを止める。目の前にはかつての南山城の城壁と思われる石垣が横たわっている。

中に入ると、石垣に沿って立つカジュマルの木が目に付く。中には石垣の上に生えて根が石垣に食い込んでいる部分も多数あり、時代を感じさせる。

その先は神社になっており、更に先に進むと「南山城跡」という石碑が建てられている。


周辺を見渡すと、石垣とその前にある石で出来た箱みたいなものが横たわっている。「これが南山城の遺構かな?」とおもってよく見てみると、石の箱のようなものには「大正四○○十○○吉日(○は判読不能)」と刻まれている。

ってことは、後ろの石垣だけが南山城の遺構って事なのか?

北山城と言われた今帰仁城や中城などと違い、こちらは城壁以外の遺構はほとんど残されていないようだ・・・。

ちなみに、今回は行かなかったが南山が滅ぶきっかけになった湧き水が近くにある。

「カデシガー」という泉で嘉手志川の源流なんだけど、ここは渇水の時にも枯れることが無い泉で他の地域からも羨ましがられていた。しかし欲の深い南山城城主が尚巴志(琉球を統一した人物)の持っていた金屏風欲しさにこの泉と金屏風を交換してしまった。

で、尚巴志は自分の言う事を聞く人にだけ泉を使わせた為に、尚巴志が南山に攻め入ってきた時は民衆が尚巴志の味方をしてしまい、南山は滅んでしまった・・・というもの。

写真を見ると、整備されているとは言え何の変哲も無い泉。しかしその裏には大きなドラマがある。ちょっと時間が押してしまっていたという理由があったとは言え、今となっては行かなかったのがちょっと残念に思っています。

[ 5/35/4 その15/4 その25/5 その15/5 その25/6 その1 | 5/6 その2 | 5/7 ]


リンク

ホーム
旅日記TOP

コンテンツ内リンク

5/3
5/4 その1
5/4 その2
5/5 その1
5/5 その2
5/6 その1
・5/6 その2
5/7





▲ページ先頭に戻る