2007年夏・北海道旅日記です。 | |
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2007年夏 北海道の旅8月15日 その1今日も天気は晴れ。暑くなりそうだ・・・。テントの撤収を手早く済ませ、出発。とりあえずR224に出て、北方向へ向かう。しかし、今回も知床方面に向かうつもりは最初から無かった。理由は、お盆の時期の知床は特にウトロ周辺が混むだろうと予測したから。世界遺産になったのは良いけれど、観光客の激増で肝心の自然そのものが変質しなきゃ良いんだけど・・・。 越川橋梁越川橋梁は一昨年も来た所なのであるが、とりあえず再説明。正式名称は「第一幾品川橋梁」と言い、昭和14年に完成した長さ147mの10連コンクリートアーチ橋。 旧国鉄根北線が通るはずだったのだが、根北線は昭和32年に斜里から越川まで開通したものの、越川橋梁までは線路が伸びず結局昭和45年に廃線。越川橋梁は一度も列車が通る事無く放置される事になったのです。 そして昭和48年に国道拡幅工事の際に橋脚2本が撤去されて現在の姿になりました。 ここで「越川橋梁の完成と根北線の開業時期に、何故18年も間があるの?」という疑問を持つ方が多いと思いますが、根北線自体は軍事物資の輸送を目的として第二次大戦前から建設が始まっていたのです。最終的には標津に繋がる予定でした。 しかし根北峠付近は山間地という事で工事が難航し、結局標津まで繋がる事無く終戦と同時に工事は中断、越川橋梁も放置されてしまったのです。その後、斜里〜越川までは地元の要望で線路を復活させて駅も作り(元々軍事物資輸送の為の路線だったので駅が無かった)、根北線として営業を開始したのです。 この根北線や越川橋梁の建設も、タコ部屋労働と言われる強制労働によって作られました。この橋梁は、金属物資の不足から鉄筋を一切使わない構造になっています。また、人柱が何体も橋脚に埋め込まれているという有名な話もあります(真偽は定かではない)。 改めて見上げてみると、この山深い地に多大な犠牲を払いながら建設されたにもかかわらず、結局は使われる事無く放置される事になったこの橋の建設に携わった(携わされた)人々は、さぞかし無念だろうと思う。 軍事物資輸送が最優先で建設されたと言う事は、採算が取れるかどうかは別問題とされていたと考えられるが、その結果がこれ。標津まで開通していたとしても、この付近の希薄な人口密度を考えると廃止は免れなかっただろうな。 DMV(デュアルモードヴィークル)R244を西に向かう。原生花園駅(夏季限定の臨時駅)の脇を通り過ぎる瞬間、視界の右端にどこかで見た記憶がある、角ばったボンネットの付いた黄色い車体が目に入った。「あ、あれはDMVではないかっっっっ!」 ちょうど原生花園駅を出発するところで、動き始めた所だった。駅には何人もの鉄ヲタ・・・げほげほっ、鉄道ファンがカメラを構えていた。 「この先しばらくは線路と国道が並行しているはず・・・先回りだっ!」 しばらく走った所でスカブを右の路肩に止め、カメラを構える。移動物体を撮るのは苦手なので、あらかじめシャッター半押しでピント位置を決めておき、DMVがそこに達したら撮影という方法を取った。 やがてカーブの向こうからDMVが姿を現した。マイクロバスをベースとした車両なので、鉄道車両特有の「タタン、タタン」という音は無く、予想より静かな走り。 目の前を通過する瞬間、車内にもう一人運転手らしき人が座っているのが見えた。その理由は私にはすぐに理解する事ができた。 つまり、鉄道区間と道路区間では別の運転手が運転を担当するという事。調べてみると鉄道区間ではJR北海道の臨時列車、道路区間は網走バスの貸し切りバスとして運用されているとの事。 線路上を走る時に必要な免許と、道路上を走る時に必要な免許が違うという面もあるだろう。ちなみに線路上を走る場合は「動力車操縦者免許」という資格(更に原動機の種類で細分化されている)が必要で、道路上を走る時は「大型二種免許」が必要。 大型二種免許はバスの運転手以外でも持っている人がいるが、動力車操縦者免許は教育訓練施設を鉄道会社が保有しており、個人的に取る免許ではない(と言うか、個人的には取得不可能の)為に大型二種免許と両方持っている人が極端に少ない。 DMVの車両自体は試験運行できるまでにはなっているが、人の面と法的な面でまだ弱点を持っている。現時点では、運用コストにおける人件費がほぼ倍になってしまうという事だ。法的な面では少しづつ整備されてきてはいるようだけど。 何はともあれ滅多に見られない車両であるし、更にもう一回先回りして再度写真に収めた。このルートを選んだのは、「もしかしたら釧網本線で試験運行されているDMVが見られるかな〜」と思ったからであるが、まさにその目論見がドンピシャだったわけで、非っ常〜にラッキーでした(^_^) その後藻琴駅の前を通ったら、既にモードチェンジを完了して駅舎前に止まってました。 ちなみにDMVは釧網本線の浜小清水駅〜藻琴駅間を試験運行しています(2007年9月現在)。乗車は完全予約制で、JR北海道のHPでも受け付けてます。 その後は、道道104号線を南下する。 鎖塚鎖塚は、昨年訪れようとして結局見つけられず取りこぼした場所。道道104号線沿いの緋牛内という所にあるのだが、R39との交差点からそう遠くない少し高い位置にある為に、見逃してしまっていたようだ。ここは、網走〜上川間の中央道路を開削する時に強制労働させられ、過酷な労働により死亡した囚人の墓標の一つ。供養碑の碑文を以下に転載。 明治廿四年北海道長官永山武四郎氏は、網走と旭川を結ぶ国道開設の急を感じ、網走空知両監獄の囚人凡そ千人を動員し、五月上北両端より着工十二月完成の突貫工事をした。此の道路が北見の開発に貢献した事は言うまでも無いが、工事の際死亡し路傍に埋められた墓標なき囚人は三百に余るとも云う。此の三基も亦彼等を縛った鎖だけがその上に残されてあり、是を鎖塚と呼ぶようになった。此処に供養碑を立て尊くも哀れな御霊を永く弔う。
※管理人注記:読み易くするために句読点を追加してあります。 ここ2年ほどは北海道の歴史の暗部を訪ねるようにしているが、ここもその一つ。道内では心霊スポットにもなっているほどの場所なのであるが、お盆ということもありお参りに来ている人が大勢来ている状態で、怖さは全く感じなかった。皆自家用車で来ている事から、道内の人達らしい。 ツーリング中の内地の人がここを訪れるのは珍しいらしい。まぁ自分でもそう思うのだが、スカブを止めるといろいろな人に話しかけられてしまった。それも旅の楽しみの一つでもあるんだけどね。 更に、ここで常駐している世話人(?)の方から冷えた缶コーヒーとお菓子まで頂いてしまった。確かに手を合わせていくつもりではあったが、旅の途中に立ち寄っただけの私にももてなしをして頂いて、非常に恐縮してしまったのでした。この場を借りて改めて「ありがとうございます」。 線香を供え、手を合わせる。北海道の道路や鉄道は、こうして強制労働させられた人々(囚人やタコと呼ばれた内地出身の労働者)によって作られた場所がいくつもある。 本格的な開拓は明治に入ってからだけど、そもそも北海道はアイヌ民族とのトラブルを含め今では考えられないような苦労をして開拓した土地。その上に今の北海道の人々の生活があって私達旅人もその恩恵を享受している。 北海道を旅する時には、頭の片隅にでも留めておいたほうが良いんじゃないか・・・と思う。個人的な考えだけど。 8/12|8/13|8/14 その1|8/14 その2|8/15 その1|8/15 その2|8/16|8/17|8/18〜8/19 |
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